老子道徳経とは
老子道徳経の作者は、老子、老と言われています(子とは先生という敬称)。老は楚の人で、周の図書館の司書をつとめていました。かれは周の国勢が衰えるのを感じ、周を離れ西方に向かいます。関所である函谷関を過ぎるとき、関守の尹喜の求めに応じてその教えを書き下ろしたのが「老子道徳経」の5千字です。

なぜいま老子なのか?
この老子道徳経は、思想や哲学、宗教ではありません。それは曹洞宗の開祖である道元禅師が説いた「眼横鼻直」を示しています。道元が宋から戻り、最初に説いた教えが「眼横鼻直」でした。道元が学んだ仏法とは、眼は顔の横にあり、鼻は真ん中に真っすぐあるということであり、「一毫も仏法無し」と説きます。つまり、道元は「思想としての仏法」を否定し、仏法とはいま目の前に現成する事実、リアリティそのものであるということでした。この現実世界の他にリアリティがあるわけではありません。すべてはこの現実に現れているのです。

同様に、老子道徳経はこの「眼横鼻直」を説きます。つまり、この現実世界のリアリティ、法則性を説いているのです。ただし、それは科学ではありません。科学とはテストし実証することのできる仮説のことです。しかし、老子道徳経が説く法則性は、実証することができません。しかし、経験則として賦に落ちることであり、最先端の科学と矛盾することを述べているわけではありません。

たとえば、聖書の創世記では、神が7日で万物を創造されたことになります。しかし、この創造論は進化論と矛盾します。神は人間を6日目に創造されたのに対し、進化論では、人間は最初から存在したわけではなく、生物が進化した結果として人間が発生したことになります。したがって、聖書の創世記は明らかに科学と矛盾します。宇宙の起源であるビッグバンとも矛盾します(ここでどちらが正しいかを論じたいわけではありません。両者が矛盾していると言いいたいのです)。

それに対し、老子道徳経の教えは、科学とは矛盾しません。むしろ、科学と整合的に解釈することが可能です。老子道徳経は、実証することができないという意味において科学ではありませんが、自然、人生に対する一つのリアリティ、真理を開示しています。老子の主張を一言でいえば、それは唯道論、唯プロセス論です。現象をプロセスとしてとらえ、その論理的特徴を明確化し、そのうえでそのプロセスにどのように対処すべきか、いわばプロセスに対する「戦略」を示しているのです。

この戦略は、OODAループの枠組みで整合的に解釈できます。また、因果関係の成立しないプロセスを直接的な対象にしているため、起業家の多くに見られる思考パターンであるエフェクチュエーションの具体的な適用方法を示唆するものでもあります。従来、老子といえば儒教に代わりうる道徳や精神のあり方を示すものとして解釈されてきました。しかし、私自身は、道徳や精神性としてではなく、「戦略」として老子を解釈しています。「戦略」として実践性の高い教えだからこそ、いま老子を学ぶべきだと考えるのです。

無為自然とは
しかし、この老子の法則性は老子研究者を含めて、十分に理解されていません。老荘思想といえば、「無為自然」というキーワードが有名です。これは何もしないことと解釈されることが多いでしょう。深山幽谷で隠居生活を送るのが「無為自然」という言葉のもつイメージではないでしょうか。

しかし、このような解釈は私は誤りだと思います。それは「無為」という言葉を誤解しているからです。「無為」のなかの「無」を否定語、「なし」として解釈すると、なにも行わない、という意味になります。しかし、在野の老子思想家、伊福部隆彦氏はこれを「無の働き」と解釈しました。つまり、「無」とは否定語ではなく主語であり、「無が為す」という意味になるのです。「無が為す」とは、「無の働き」ということです。

老子の世界観は、無から有が生じ、有が無に還っていくという無と有の円環運動です。この円環運動が「玄」と呼ばれるものです。無と有は別々のものではなく、一つの円環運動の部分であり、この運動経路のなかで認識できるもの、すなわち現象界が「有」であり、現象の背後にある趨勢、勢いが「無」となります。

たとえば、花を想像してみてください。花は種から芽が出て、木、枝、葉が生じ、花が咲くことになります。このなかで種が「無」です。この種には花の遺伝子が含まれています。しかし、種の段階ではまだ形になっていません。この種自体が木、葉、花として展開していきます。このような目に見える形となったのが「有」です。しかし、花はいずれ散り、根に還っていきます。つまり、「有」は「無」へと消滅していくのです。

ただこの例はあくまでも比喩です。より正確には「無」とはエネルギーと考えられます。アインシュタインの有名な方程式、E=MC2 があります。この左辺のエネルギーをあらわすEが「無」、右辺の物質の質量Mが「有」です。物質はエネルギーを反映したものであり、エネルギーから物質は現れ、(対)消滅してもエネルギーはそのまま保存されます。これは、「無」と「有」の円環運動を示しているととらえることができます。

この無と有から構成される円環運動は、「玄」と呼ばれます。「無有一如の玄」です。あるのは「玄」の円環運動であり、その運動が形として現れればそれを「有」といい、形になっていない段階を「無」と呼ぶわけです。そして、この玄の円環運動の経路を「道」と呼ぶのです。

戦略としての老子
「無為自然」とは、この無の働き、より正確には、玄の円環運動のプロセスに従った生き方をせよ、ということです。このプロセスの前では、人間のできることは限られています。自らの多くの試みは失敗に終わることをわきまえた庭師の慎ましさ、それが「無為自然」ということであり、無に従うということの意味なのです。大切なのはプロセス特性に応じた行動をしていくということです。

たとえば、老子の指摘するプロセス特性の一つとして、補償効果を指摘することができます。66章では、人の上に立とうとするのであれば、その下に下り、人民に先立とうとするならば、その身を後にしなければならない、と指摘しています。あるいは、42章では、損することが益することになる、とあります。つまり、逆の方向に進むことで、反作用が生じ、所期の目的を達成することができるということです。なぜ、こういうことが生じるのでしょうか。

その論理の一つとして指摘することができるのが、心理学でいう返報性の原理(norm of reciprocity)です。たとえば、米国の高級百貨店、ノードストロームの場合、店員は顧客には決して売ろうとせず、顧客の問題解決のために努力することが求められます。極端な例では、ライバル店にまでついていって顧客が望むものを一緒に見つけるわけです。そうすると、それが心理的な負債となり、その負債を返済するために、顧客はこの店員から何か商品を購入しようとします。商品を売ろうとしないことで結果として商品を売ることができます。ところが、最初から「買ってください」と顧客にプレッシャーをかけると、敬遠され、買いたくても買わなくなってしまうのです。

このように老子が指摘するプロセス特性には多くのヒントがあります。そのプロセス特性に応じた行動をしていくというのが、私の理解する「道に従う」ということであり、「戦略としての老子」の解釈になるのです。

老子についてご関心のある方は、RIAMにて開催予定の老子の輪読会に是非ともご参加ください。

https://riam.jp/riam/wp-content/uploads/2022/12/harada-rohshi.pdf

参考文献

  • 伊福部隆彦著『老子眼蔵』池田書店
  • 伊福部隆彦著『老子道徳経研究』池田書店
  • 原田 勉著「老子の説くイノベーションへの道 第1回」『関西師友』2019年7月号, 38-41.
  • 原田 勉著「老子の説くイノベーションへの道 第2回」『関西師友』2019年8月号, 20-23.
  • 原田 勉著「老子の説くイノベーションへの道 第3回」『関西師友』2019年9月号, 32-35.